1934年

芸者時代の京子

 

函館大火後、芸者の道へ本格始動

昭和9年3月函館大火がありました。京子は小樽にいたため無事でしたが函館は市の3分の2が焼かれました。
しかし翌年の昭和10年は、ペリー上陸100年記念行事として第1回の「港まつり」が行われ、北洋漁業の隆盛とともに函館は活気を取り戻しました。

函館に戻った京子は、芸者試験に合格して本格的にお座敷に上がるようになりました。

当時の銀座通りは、いくつものカフェーが並び東京の銀座さながらに柳の並木道は深夜まで大変な賑わいだったそうです。
初音、きらく、小鶴など大きな料亭があり、函館見番、東見番、湯の川見番、蓬莱見番などそれぞれに決まった見番があり芸者が50~70人いました。

そのなかで京子は「踊りが上手」と評判が高く、蓬莱町の全盛時代とともに歩んできました。

 

※ 函館大火
住吉町から出火して、午後7時から翌日9時まで燃え続いた。市の3分の2が焼かれ、死者2166人、重軽傷約3000人、罹災者120、000人を出した記録的な惨状だった。

※ 見番(けんばん)
料亭からの依頼を受けて置屋に芸者の手配をする仲介所。玉代の計算、花街の管理、新年会や踊りの会など行事や稽古場でも使う集会場でもあった。

1921年

半玉時代の京子

 

芸者の母にあこがれて

大正から昭和にかけての蓬莱町(現在の宝来町)は、電車通りをはさんで料理屋や見番、人力車屋、質屋、下駄屋などが20件くらいが立ち並ぶ華やかな街でした。
夏は三味線の音が聞こえ、夜ともなれば日本髪で褄をとって歩く芸者さんの姿も見られ花柳界の活気に溢れていたそうです。

尾形京子は大正10年生まれ。母マスは鶴千代という芸者でしたが、京子は母の芸者姿に憧れて自らも芸者になる決心をします。
小学校の時すでに踊りや義太夫を習っていた京子は、昭和8年から小樽の海陽亭で本格的に修行をはじめました。

明治時代に建てられた海陽亭は、160畳や70畳の大宴会場をもつ老舗の料亭で住み込みの芸者も20人ほどいました。
日露戦争時代には軍部の会議にも使われたといわれています。
そこで京子は、踊りや長唄、三味線の稽古などの修行を積み、昭和10年には半玉の見習いでお座敷にでるようになりました。

 

はじめに

冨茂登のお座敷にて

冨茂登は、昭和36年に宝来町電停前におでんの店として創業。その後、昭和55年に旧料亭小鶴の建物を譲り受けました。
創業者は大女将である尾形京子です。

その中から大女将と冨茂登の歴史をご紹介します。