お店の歴史

冨茂登の歴史

料亭冨茂登は、昭和36年に宝来町電停前におでんの店として創業。その後、昭和55年に旧料亭小鶴の建物を譲り受けました。

創業者は現在も大女将である尾形京子です。昨年12月大女将は『花はくれない柳はみどり』という自身の半生を綴った本を出版いたしました。

そのなかから大女将と冨茂登の歴史をご紹介します。

「花はくれない柳はみどり」

「花はくれない柳はみどり」好評発売中。1050円(税込)

 

 

芸者の母にあこがれて

大正から昭和にかけての蓬莱町(現在の宝来町)は、電車通りをはさんで料理屋や見番、人力車屋、質屋、下駄屋などが20件くらいが立ち並ぶ華やかな街でした。夏は三味線の音が聞こえ、夜ともなれば日本髪で褄をとって歩く芸者さんの姿も見られ花柳界の活気に溢れていたそうです。
尾形京子は大正10年生まれ。母マスは鶴千代という芸者でしたが、京子は母の芸者姿に憧れて自らも芸者になる決心をします。小学校の時すでに踊りや義太夫を習っていた京子は、昭和8年から小樽の海陽亭で本格的に修行をはじめました。
明治時代に建てられた海陽亭は、160畳や70畳の大宴会場をもつ老舗の料亭で住み込みの芸者も20人ほどいました。日露戦争時代には軍部の会議にも使われたといわれています。そこで京子は、踊りや長唄、三味線の稽古などの修行を積み、昭和10年には半玉の見習いでお座敷にでるようになりました。

大女将

大女将

母マス

半玉時代の京子

海陽亭

蓬莱町の隆盛時代

昭和9年3月函館大火がありました。京子は小樽にいたため無事でしたが函館は市の3分の2が焼かれました。しかし翌年の昭和10年は、ペリー上陸100年記念行事として第1回の「港まつり」が行われ、北洋漁業の隆盛とともに函館は活気を取り戻しました。
函館に戻った京子は、芸者試験に合格して本格的にお座敷に上がるようになりました。
当時の銀座通りは、いくつものカフェーが並び東京の銀座さながらに柳の並木道は深夜まで大変な賑わいだったそうです。初音、きらく、小鶴など大きな料亭があり、函館見番、東見番、湯の川見番、蓬莱見番などそれぞれに決まった見番があり芸者が50〜70人いました。
そのなかで京子は「踊りが上手」と評判が高く、蓬莱町の全盛時代とともに歩んできました。

※ 函館大火
住吉町から出火して、午後7時から翌日9時まで燃え続いた。市の3分の2が焼かれ、死者2166人、重軽傷約3000人、罹災者120、000人を出した記録的な惨状だった。
※ 見番(けんばん)
料亭からの依頼を受けて置屋に芸者の手配をする仲介所。玉代の計算、花街の管理、新年会や踊りの会など行事や稽古場でも使う集会場でもあった。

みなと祭

みなと祭


お座敷で踊る京子

お座敷で踊る京子

芸者廃業とおでん「冨茂登」の誕生

昭和34年、京子は突然の交通事故に見舞われます。乗っていたハイヤーが正面衝突を起こし3ヶ月の重傷でした。顔に傷が残り東京で整形手術を受けたのですが、これを期に芸者を廃業することにしました。そこで京子は第二の人生として、現在の冨茂登の横でおでんの店を始めました。
名前は『酒は泪かため息か』で著名な作家、高橋掬太郎の命名によります。箱館山の麓(ふもと)から字画を選んで冨茂登と名付けていただき、看板の書も先生自らが割り箸を削り墨でしたためたものです。
その後、作家の山口瞳さんにもごひいきしていただき著書「いきつけの店」でご紹介して下さいました。

開店の頃

開店の頃

料亭「冨茂登」

時代とともに宝来町の町並みも変わりました。お店も移転を期に、料亭「冨茂登」として生まれ変わり、京子の次男で現在の店の主人である尾形宥治によって新たな名物料理をご提供することができるようになりました。
山口瞳さんがお気に入りだった「烏賊の糸造り」をはじめ「いくらめし」や「根ぼっけの西京焼」など。また、函館ならではの新鮮な魚介をご用意しています。
大女将、尾形京子が日頃申していますのは「お客さまへの感謝の気持ち」を第一に考えることです。それは、京子が芸者時代に培った最も大切な経験かもしれません。
毎年夏になると高田屋嘉兵衛祭が行われます。この祭りは嘉兵衛の没後150年にあたる昭和51年に京子をはじめ地元の人々が企画し盛り上げてきたもので、この時ばかりは宝来町もかつての賑わいをみせます。
ぜひともこうした、歴史に想いをはせながらお料理をお楽しみいただければ幸いです。

高田屋嘉兵衛像

高田屋嘉兵衛像